大里城(天栄村大里)
別名牛ヶ城、武隈城とも呼ばれる。
大里地区にあり、竜田川(大里川)の北岸、大里小学校の北西500mに位置する比高50mの武隈山に築かれた山城である。
東下を国道294号線が通る。この山、山地に続く西側以外、三方が急斜面である。
山続きの西の尾根に「天栄村ふるさと伝承館」があるが、ここも出城であろう。
ここと主郭部間には深さ20mの堀切状の谷になっており、ほぼ独立した感じの山である。直径は250mくらいであろうか。
城へは東下の国道294号線脇に解説板があり、遊歩道が付いている。
この遊歩道を行くと「天栄村ふるさと伝承館」に行ける。車で来た場合は、国道294号線脇及び「天栄村ふるさと伝承館」に駐車が可能である。
さて、この城であるが、山自体曲輪の切岸の勾配の鋭さ、高さが凄い。
国道294号線脇から階段を上がって行くと、畑に使っていたと思われる30m×60mくらいの曲輪がある。
この道が大手道ではないかと思われる。
ここから谷沿いに登るが、両脇の尾根及び谷部に曲輪が段々に展開する。
主郭部が正面、南側に二郭が見えるが、切岸の高さは10m以上あり、急勾配である。
主郭部は東に30m×15mほどの二郭(東端に突き出し15mくらいの腰曲輪あり)、南に張り出しがあり、西側に東西50m×南北30mくらいの広さの本郭が延びる。
本郭の南側には腰曲輪がある。
本郭の西側は一気に15mほどの急勾配となり、南北に2段の曲輪がある。北側の曲輪が一段高く、虎口がある。
この曲輪から斜面を登り本郭に入ったのかもしれない。この道が搦手道かもしれない。
本郭西下のさらに10m下の曲輪は西側に土塁を持つ。
その西下に堀切である。ここが実質、主郭部の最西端である。
ここから一気に20m登ると、「天栄村ふるさと伝承館」であるが、その間に曲輪が見られるので、「天栄村ふるさと伝承館」の地にも出城があった可能性がある。
総じてこの城は急坂の山であり非常に攻めにくい。
やる気満々の連中に篭城されたら、伊達軍でも攻めきれないのは当然であろう。

北西側から俯瞰した大里城 南東側から俯瞰した大里城
北側から見た城址 @大手道から見上げた二郭方面の切岸 A二郭内部
B 本郭内部。 C 本郭(右)と南西下の腰曲輪 D 本郭北下の曲輪の虎口
E 西下の掘切に面する曲輪の土塁 F 城址西端の堀切 G 北に続く尾根にある「ふるさと伝承館」

戦国時代、ここ大里は須賀川の二階堂氏の領土であり、家臣矢田野氏の所領であったという。
この大里城は桑名因幡守が城代を務めていた。天正17年(1589)、須賀川城が落城し、二階堂氏は滅び、矢田野氏は伊達氏に仕える。
しかし、翌年、小田原の役が始まり、すったもんだのあげく、天正18年(1590)4月15日、伊達政宗は小田原へ向かう。
その中に矢田野義正がいたが、彼は途中で抜け出し、ここに戻り、二階堂残党を決起させる。
そして矢田野藤三郎義正以下、泉田館主泉田将監、明石田館主明石田左馬助が大里城に籠城する。
形ばかり伊達氏に属していたが、二階堂氏復活の機会を密かに狙っていたのだろう。
決起を知った伊達氏の留守居役、伊達成実は石川昭光と白河義親に討伐を命じ、援軍を組織する。
石川勢は6月23日攻撃を開始する。
しかし、石川氏、白河結城氏とも篭城した連中とはかつての仲間、戦意はほとんどなかったであろう。
おそらく包囲しただけだったのであろう。
その後、伊達の援軍が到着し攻撃を行うが、撃退され、7月4日伊達成実、片倉景綱率いる伊達本隊が到着し、攻撃を繰り返すが、一向に落城することはないばかりか、逆襲を受け、大損害を蒙る。
ついには三春城の田村宗顕も参陣し、伊達軍は1万の大軍となり攻撃に加わる。
8月2日に伊達政宗が総引き上げを命じるまで攻撃は続くが、結局、落城することはなかった。
大里城籠城戦を知った豊臣秀吉は大里城の明け渡しを矢田野義正に命じたが、その武勇を賞め安房守の受領名を与るとともに、新領主、蒲生氏郷に「本領を安堵してやれ」と下知したと、秋田久保田藩士矢田野家に伝わる豊臣秀吉の御朱印状によって分かるという。
矢田野安房守義正は、その後佐竹氏に仕え、元和9年(1623)59歳で死去し、子孫は秋田藩士として続いたという。
二階堂氏は弱小の戦国大名であるが、石川氏、白河結城氏が伊達氏に従服する中、家臣ともども伊達氏に徹底的に反抗する姿勢は大した根性である。